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シルク・ドゥ・ソレイユ加入と、気絶・救急搬送

それは、シルクのキャスティングチームからのメールでした。

「我々は常に、新しいものをショーへ取り入れることを意識しています。最新ツアーショー『KURIOS』についても同様です。我々は今、あと一つ追加の演目を必要としており、あなたのスケジュールを確認したくご連絡しました」

2014年4月上旬。オーディション合格からは5年が経過し、シルクに憧れ始めてからは実に10年が経過していました。

ついに届いた念願の出演依頼でしたが、実は正直なところ、依頼を受けるべきか否か迷いました。

開演をわずか20日後に控えた急な連絡であったこともありますが、それ以上に、当時はようやく講演活動が軌道に乗り始めた矢先であり、「いま日本を離れるのは、TEDの影響で講演依頼が増えているボーナス期間を捨てるようなものだ」と思ったからです。

熟慮の末、私は出演を決めました。
一番の理由は、パフォーマーとしての成長が鈍っていたことへの焦りです。

TEDで披露したパフォーマンス「Yo-Yo Samurai」、自信をもって「作品」と呼べる演技がようやくできた事を嬉しく思う一方で、自分の経験やアイデアをすべて注ぎ込んでしまったため、次の作品のアイデアが浮かんでこない、という悩みがあったのです。

「聞くところによるとシルク・ドゥ・ソレイユには振付師の人がいて、演技づくりを手伝ってくれるらしい。彼らの力を借りることで、パフォーマーとしての新たな自分が見つかるのではないか」

これが、出演を承諾した一番の決め手でした。

開演を10日後に控えクリエーションが佳境に入っていたシルク本部へ飛んだ私でしたが、その直後、自分の考えが間違っていたことに気づきました。

多くのアーティストは約半年前からショー製作を行っていて、確かに当初は振付師もクリエーション内にいました。しかしほとんどの演目が完成していたこの時点では、既にショー製作から離れてしまっていたのです。

私は、自力での演技制作を余儀なくされました。しかも求められたのは、「サムライ」とは似ても似つかない、洋風の明るいキャラクターとしての演技。

自らの演技制作能力を高く買っていただけていることは嬉しかったですが、「シルク・ドゥ・ソレイユの名に恥じない演技を1週間で仕上げなければならない」というプレッシャーは、並々ならぬものがありました。

そしてそのプレッシャーは、肉体にも影響を及ぼしていたようです。

カナダ到着から6日後の2014年4月20日、私は突然、アーティスティックテント内で意識を失い倒れました。

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